菅原神社の祭神  菅原道真公
 学問の神として世に名高い菅原道真公は、古代の豪族であった土師氏の後裔に連なる。
 土師(はじ)氏は、天照大神の御子神である天(あめの)穂(ほ)日(ひと)命(みこと)の14世の孫・野見宿ね(のみのすくね)を始祖とし、土師氏や埴輪の製作および葬送儀礼を司っていた。
 土師氏と姻戚関係にあった山部親王が、781年(天応1)に即位して桓武天皇になったのを機会に、土師氏一族は菅原・秋篠・大江の3氏へ改姓を認められた。

学問の家に生まれ、文章博士に
 菅原氏の開祖となったのは、道真公の曽祖父にあたる古人で、これ以降、菅原家は学者の家柄として栄えるようになる。祖父の清(きよ)公(きみ)と父の是(これ)善(よし)は、文章博士(古代の大学寮で中国の史書と詩文を学ぶ紀伝道を教える教官)として朝廷に仕えていた。その是善の3男として845年(承和12)6月25日に、京都で誕生したのが道真公である。幼名を阿呼(あこ)という。
 学者であった祖父や父の血を受けついだ道真公は、幼少のころからその文才を発揮し、5歳にして和歌を詠み、11歳のときには漢詩を作るほど、その才能は秀でていた。
 その後、着実に学者としての道を歩み、33歳のときには祖父や父と同じ文章博士となっている。
 886年(仁和2)、讃岐(さぬき)守(のかみ)に任ぜられた道真公は、国司として讃岐国(現在の香川県)に赴任するが、890年(寛平2)に帰京すると、時の宇多天皇に信任を得て、順調に中央官僚として地位を高めていく。

出世を妬まれ、左遷される
 895年(寛平7)には従(じゅ)三位(さんみ)に叙されて中納言になるが、それからわずか2年後には権大納言に任ぜられ、さらに2年後には右大臣まで昇りつめる。道真公55歳のときであった。
 だが、こうした栄達をこころよく思わない者たちがあらわれる。有力豪族として、古代から朝廷の高い地位を独占していた藤原氏にとって、いわば成りあがり者であった道真公の存在は、疎ましく思われたに違いない。
 左大臣藤原時平たちは共謀して、道真公が謀反を企んでいると、宇多天皇のあとを継いでいた醍醐天皇に密告したのである。この讒言(ざんげん)によって、道真公は右大臣の職を召しあげられ、大宰権(だいざいごん)帥(のそち)という地位に落とされてしまう。

配所で没し、神として祭られる
 遠い九州の地にある大宰府に左遷された道真公は、いつの日にか疑いが晴れて帰京できることを夢にみながら、詩作に気をまぎらしていたと伝えられている。だが、その夢もかなうことなく、903年(延喜3)2月25日、病得て床に伏していた道真公は、配流の地で59歳の生涯を終えた。
 京都から随行していた門弟の味酒安行が、道真公の遺骸を葬るべく牛車に乗せて運んでると、急に牛車が動かなくなってしまった。「此の地(大宰府)に埋めよ」との、道真公の遺命を道真公の墓所とし、祠廟を建てて祀った。

菅原神社の歴史(古い資料より)
 字岩崎にあり、境内は西福山境内と腹背相表裏す。
 すなわち鴇ヶ嶺分嶺の中腹突起せし所なり、社後の岩窟より自然に湧き出る小池には鯉や金魚の浮遊するあり、階前の老松古杉と相對して閑雅なる一神境の観あり。
 昔は天満宮と稱す。酒井家の創建、明治初年菅原神社と改稱。

東金の歴史に詳しい方の話では
 八鶴湖湖畔にある最福寺は、1490年頃、安国山として今よりも広い境内がありその敷地内に、最福寺のお宮として存在していたと残っていますが、詳しい内容は現在調査中です。
 あくまでも推測の話にはなってしまうのですが、江戸時代に活躍していた「板倉家」※が京都の北野天満宮を崇拝しており、当時は、天満宮と称していましたが、その分社を自 らの領地に建てたのではないかと推測されます
 これも推測になってしまうのですが、その当時から菅原神社祭典も行われていたのでは、ないかと思われます。
 その後、明治初年に現在の菅原神社として建立したという話です。
※板倉家とは、江戸時代に幕府の中枢で活躍していて寛文11年(1671年)に幕府より現在の上宿、谷、岩崎、新宿、田間、豊成の二又地区を拝領し、領地としていた名家。
資料提供:岩崎区青年
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Sugawara Shinto Shrine DO!TOKIGANET